孟子 × 荀子

教育と政治


 孟子の性善説、荀子の性悪説は、人間の本性に関する対立というよりは、むしろ教育あるいは政治の問題であった(→孟子 × 荀子 人間の本性)。孟子の性善説が言うのは、人間の本性は潜在的な意味では善だ、したがって、善なる性質は外部から押し付けられるものではない、しかし同時に、萌芽状態から顕在的な状態へと現れなければならないのであり、そのために孔子の教えが必要なのだ、ということである。これに対して荀子の考えでは、人間はそのままでは悪である。人間が本性的に善だというのは偽であり、人為の結果である、しかし、人間は理想としては善を目指さねばならない、したがって、そのための教育、人間の悪なる本質を抑圧し、善性を植え付けるような政治が必要なのだ、と。
 つまり、目指すところは大して違っているわけでないのである。違っているのは、その目指す目的のための手段である。孟子の立場、人間の潜在的な善性を助長する立場を「徳治」と呼び、荀子の、人間に善性を植え込むという立場を「礼治」と呼ぶ。これは教育と政治に関して次のような帰結をそれぞれ生むことになる。
 孟子の立場、これは善性を助長し、育てるという自然主義の教育を主張することになる。これに対して、荀子の場合、人間は善へと形成されねばならない、それは明らかに人為である。
 また、孟子はいわば民主主義的な立場に近いのに対して、荀子は上からの統治の立場を打ち出す。したがって、政治に関して荀子は、むしろ法治を説いたとも言えるのであって、これは後の法家の思想に影響を与えたのである。ただし、その場合に荀子のいうのは、法の原理が儒教的な徳目にあるのだ、ということなのである。


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