孟子 × 荀子

人間の本性


 同じく孔子の弟子として出発した孟子と荀子だが、人間が本質的に善であるか悪であるかについて対立したとはどの教科書にも載っていることである。時代的には、孟子が性善説を述べ、これに対して荀子が反論したという順番になる。荀子は、意識して孟子の反対論を立てたのであるから、この二説は明らかな対立関係にあり、構図としても対照的に、非常によくできたものであったため、中国の思想の中で大きな問題として論じられてきた。
 しかし、荀子の反論は、孟子の立論とは微妙なずれを見せている。このことは、いわゆる孟子の四端の説において明らかである。孟子の考えでは、惻隠の心、羞悪の心、恭敬の心、是非の心という四つが、それぞれ、孔子の教えに言うところの仁、義、礼、智に対応して、それらの端緒となる、というのである。つまり、人間にはもともと惻隠の情(思いやりの気持ち)というものが備わっており、それが発揮されることによっていわゆる「仁」が生まれる、同様に、羞悪の心(罪悪感)から「義」が発露され、ということである。言い換えれば、孟子が人間にとって本性的、生得的であるとするのは、実は「仁義礼智」といった「善」そのものではなく、それらの端緒・萌芽となるようなものなのだということである。つまり、人間は顕在的に善であるというのではなく、本性的なレベルでは、潜在的に、ポテンシャルに善なのだということなのである。実際孟子は、「仁義礼智は人間が外部から受け取るものではなく、本来的に所有しているものだが、それに気付かないだけなのだ」と言っている。
 しかし、これに対する荀子の反論は、そうした四端の説という意味での性善説ではなく、顕在的な意味での性善説であった。荀子はこう反論する。もし、人間の本性が善であるのなら、そもそも孔子が説いたような教えは意味を失ってしまうのではないか。いにしえの聖人や君子たちを敬い、孔子の教えを尊ぶべきなのは、人間が本質的には悪であるからだ、と。
 しかし、既に見たように、この主張は孟子の立論に対する反論としては妥当しない。
なぜなら、孟子の考えでは、人間が潜在的な善であることと、その善なる本性を引き出し、顕在化することとは全く違ったレベルだからである。
 荀子は人間はもともと悪なのだから、善であるようにするには人為が必要だと説く。
孟子は、人間は潜在的には善であるが、それを引き出すにはやはり教えが必要だとする。つまり、孟子に対する荀子の反論は、ここで人間の本性という議論から、教育・政治の議論へと引き継がれざるをえないのである(→孟子 × 荀子 教育について)。


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