ベンサム × ムーア

自然主義倫理学


 ムーアの『倫理学原論』の主張は極めて明解、いっそ単純といった方がよいようなものである。彼は、今までの倫理学が「善なる行動」「善い行ない」の議論に終始してきたとして批判し、むしろ、「善」を言語と分析の面から見なければならないと考えた。
これは、長らく停滞していた倫理学の画期的な前進であると見なされている。
 ムーアによれば、「善」とは分析できない、最も単純なものである。つまり、「善とは何か」という問に対して、「善は善である」としか言い様のないものである。それは定義されるべきものではなく、直観されるべきものである(直覚主義)。
 こうした観点からすれば、「善とは〜である」という定義は全て否定されることになる。なぜなら、もし「善はXである」という定義が成立するとすれば、それは善の概念の中にXが含まれているということになり、善概念の単純性さ(分析不可能性)が破られてしまうからである。
 ムーアは、善を他の対象(快楽、幸福、富、名誉等)と同等に扱うような立場を倫理学上の「自然主義」と呼び、厳しく批判した。殊に、功利主義倫理学をその代表として扱っている。
 ベンサムによって創始され、ミルへと続く功利主義の倫理学説は、特に実証主義、経験主義の傾向の強いイギリス系の倫理学の代表的なものであった。これは文字通り善の基準を功利性=ユーティリティ(これはヒュームの『人性論』に由来する)におくものである。ベンサムの考えでは、「善」とは即ち「幸福」であり、それが出来るだけ多くの人に出来るだけ多く分配できればよい。これが「最大多数の最大幸福」(この言葉そのものは、プリーストリーの『政治論』に由来する)という功利の原理である。しかし、この前提には、幸福ないし快楽、それと反対の苦痛とが、計量可能だという想定がある。実際ベンサムはこうした想定に基づいて、「快楽計算法」を編み出したのである。善、即ち快は、強さ(強度)、持続性、確かさ、範囲を考慮して計算される(こうした余りにも楽観的な立場は、ミルによって修正され、快苦の量(感覚的な快苦)ではなく、質的な要素(精神的な快苦)が取り入れられることになる)。この説の最大のメリットは、計算できる→見通せる→計画が立てやすい→社会学(政治学)的に有効である、という点である。これによって19世紀イギリスは産業革命の成果を吸収しつつ、実際にインフラ・ストラクチャーの整備に入ったのである。お蔭で、イギリス病にかかってからも人々の生活の質の低下は最小限に押えられている。
 これに対するムーアの批判は、いわばソフィストたちに対するソクラテス=プラトンの批判と同型性を持つ(→プロタゴラス対ソクラテス)。ソクラテスもムーアも、それぞれアテナイ及び大英帝国の黄昏に登場したのである。それ以前、ポリスや帝国が安泰、元気、大丈夫な間は、こうした批判は登場しようがないのである。不景気こそが精神性と批判性、急進性を生むとも言えよう。


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