プラトン × ショーペンハウアー

現象を超えて


 カントが認識批判を通して立てた現象と物自体の区別を、ショーペンハウアーは認識論そのものと存在論との差異ないしは区別として継承した(→カント対ショーペンハウアー)。つまり、カントが我々が何も言えない領域として放置した領域を、ショーペンハウアーは再び存在論ないし形而上学の対象としたのである。これはより一般的に言えば、現象と本質ないし本体、実体との二元論であり、カント以前の伝統的な形而上学への先祖がえりであったと捉えることもできる。例えば、現象に対して、イデアを真の実在であるとしたプラトンなどはその代表でああって、この意味ではショーペンハウアーの所説はカントへの反逆でこそあれ、依然として西洋形而上学の王道を行くものであったと考えられる(→プラトン対カント)。言い換えれば、陳腐な体系である。実際、ショーペンハウアーは、師匠であるシュルツェから、プラトンとカントを学ぶように、そして、この二人を十分に学ぶまでは他の哲学者、特にアリストテレスとスピノザはくれぐれも読まないようにという親切な忠告を受けており、実際その通りの勉強を通したのである。
 しかし、ショーペンハウアーの試みは、プラトンの議論とは決定的に異なっている。
プラトンが見出したイデア界は、理性的動物たる人間の故郷であり、善のイデアが君臨するその王国は、秩序の起源・原型となるものであった。我々のこの無常なる現象世界にしても、それはイデアの写しとして作られたものであった(→プラトン対アウグスティヌス)。
 これに対して、ショーペンハウアーが、現象界=「表象としての世界」の深層に見出したもの、即ち「意志としての世界」は、盲目的な意志の支配する苦悩の世界であった。
 「意志は究極の目的を欠いた無限の努力であるから、すべての生は限界を知らない苦悩である。意識が向上するに至って苦悩も増加し、人間に至って苦悩は最高度に達する。」(「意志と表象としての世界」§56) 「人間の生は苦悩と退屈の間の往復である。」(同§57) 「我々に与えられているのは欠乏や困窮だけであり、幸福とは一時の満足にすぎない。」(同§58) 「人間界は偶然と誤謬の国であり、個々人の生涯は苦難の歴史である。しかし、神に救いを求めるのは無駄であり、地上に救いがないということこそが常態である。」(同§59) したがって、我々の逃げ道は、結局のところ、そうした生を否定して、観想、芸術に浸ることでしかない。自殺も、その意味では肯定される。
 プラトンとの決定的な違いを明確にするのは、更に引用すれば「真、善、美という単なる言葉であるものの後ろに隠れてはならない。善は相対概念である」(同§65)といった箇所に見出されるだろう。
 こうして若きショーペンハウアーは、楽天的なヘーゲル哲学の全盛期に、ペシミズムの思想を説いた。主著「意志と表象としての世界」が完成したのは、弱冠30歳の時である。大学で講義を持つ際、彼はヘーゲルの講義の裏を故意に選んだ(彼はヤコービら同時代の哲学者はもとより、ライプニッツにも、スピノザにも、およそあらゆる哲学者を攻撃している。しかし、最も激しい批判の的としたのはヘーゲル、またシェリング、フィヒテらドイツ観念論の哲学者であった。「駄ホラ吹き、空自慢」、「ずば抜けた無知」、「偽哲学」、「詐欺」といった批判(というより単なる悪口」は、彼の主著のそこら中にばらまかれている)。しかし、当然のことながら学生は集まらない(当時は「私講師」制度というのがあり、これは集まった学生から直接授業料をとるシステムだった)。以後、彼は主著の解説に当る小品だけを書く長い余生に入ったのである。彼の思想は、当時の主流であったドイツ観念論の枠からは全く外れるものだったのである。
 ヤコービ、クライストらがカントの哲学から受けた衝撃、不安、空虚は、こうしてショーペンアウアーによって明確な形をとることになった。この思想の影響を受けたマインレンダーは、「自殺の哲学」を説き、実際に自殺してしまった。
 しかし、どっこいショーペンハウアーは生きていた。やがてヘーゲル主義が衰退し、ニヒリズムが人々の間にも蔓延し始めた頃、ショーペンアウアーは一躍時の人となった。マスコミからも注目されたショーペンハウアーは、あたかも「タクシー・ドライバー」のデ・デニーロのように、自分の部屋に自分の登場した新聞記事の切抜きを張っていたのである。


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