カント × ショーペンハウアー

ニヒリズムの登場


 カントのいわゆる批判哲学は、従来の形而上学を真正面から批判するのではなく、それらが成り立っている土台を掘り崩すことを目指していた。つまりそれらの内容を直接論じるのではなく、それらがそもそも成立するかどうかの条件を確かめること(形式主義→スピノザ対カント)。
 その結果、カントは正当な認識が成立する地平を制限し、その枠の外については扱えないのだとした。つまり、その枠がカントの言う「現象」であり、その枠の外が「物自体」である(→カント対ヤコービ)。
 カントの考えでは、我々は認識にあたって、物自体、物そのものに触れるのではない。それは未知のXなのである。我々が認識するのは、時間と空間(感性的直観と呼ばれる)を経て、悟性によってカテゴリーに納められ整理されたもの、つまりは現象であるにすぎない。我々が認識するものは、素朴に考えればいかにもそこにあるように見えるが、実は、それは物そのものではない。このことをカントは、素朴な経験的実在性と、超越論的な観念性と呼んだ。
 超越論的観念性:「そのような性質や関係は現象であるから、それ自体存在するものではなくて、われわれのうちにしか存在しえないものなのである」(「純粋理性批判」) 経験論的実在性:「超越論的観念論は、外的直観の対象は空間において直観される通りに現実にも存在するし、また時間における一切の変化は、内感がそれを表象する通りに現実にも存在することを認める。」(同) 物の超越論的観念性によって認識の客観的正当性を確保し、かつ、物の経験論的実在性によって我々の素朴な実感を保証する。カントはこれで双方丸く収まると考えた。
 しかし、カントのこの区別は人々に、カントが考えもしなかったような衝撃を与えた(→カント対ヤコービ)。カントの超越論的観念論の立場は、経験的実在性を保証するのではなく、経験的実在性しか保証しない、ああ、物の現実性、この実感に裏付けはないのだ、ガーン、ショック。というわけである。
 「カントの登場は、直接には肯定的な結果は何ももたらさず、ほとんど否定的な結果をもたらした。………誰もが、非常に偉大な出来事が起こったことに気付きはしたが、それが何であるかよく分からなかった。これまでの哲学のすべてが不毛な夢であり、今やっと新しい時代が目をさましたということは理解した。しかし、何を支えにすればよいのか、彼らには何も分からなかった。巨大な空虚、巨大な欲求が現れた。」(「意志と表象としての世界」) 我々は、ニヒリズムを神の死、道徳的な秩序の崩壊に関係付けることはできる。しかし、ここで起こったのは、むしろ、認識における実在性、現実性の喪失なのである。カント哲学の帰結として、「巨大な空虚」を洞察したショーペンハウアーは、しかし、同時に、「新しい時代」を切り開くのは自分だという自負をも持っていた。彼は、カント哲学の枠組みを利用しながら、カントの言う「現象界」、彼自身の言葉で言う「表象としての世界」の観念性を極限化する。カントのように、それは経験的実在性を持つなどというおためごかしは止めよう、カントは、「純粋理性批判」の改訂版(いわゆるB版)で、観念性をできるだけ薄めようとしたが、そんなものは欺瞞だ。しかし、そうした我々の認識、意識、表象に関わるレベルを掘り下げてゆけば、そこにはそうした観念性を突き抜けた全く異質なレベルが見えてくるとショーペンハウアーは考える。即ち「意志としての世界」である。
 カントの言う現象/物自体の区別を、ショーペンハウアーのように、「表象としての世界/意志としての世界」と読み変えることは、その理由が全く分からないという批判が続出した(現在でもそうである)。しかし、それはカントそのものに拘るためである。ショーペンハウアーの試みは、既にカント解釈の枠をはみ出している。カントのそうした区別が、あくまで認識論上のものであるとするなら、ショーペンハウアーの区別は、そうした認識論そのものとは別の地平を見出そうとする試みである。「意志としての世界」とは、認識の地平の根源に見出される、いわば存在論的な境位なのである。


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