カント × シェリング

学部の争い


 カント以前の哲学者たちの多くは大学教授ではなかった。なぜなら、それまでそもそも大学がほとんどなかったからである。勿論神学を中心に編成された大学は中世からあった。しかし、我々が今イメージする大学が制度的に確立するのはカントの時代のドイツ(と、現在呼ばれる地域)である。
 カントの当時、大学の学部は上級と下級に分けられており、上級学部とは神学部、法学部、医学部であり、下級学部とは哲学部であった。
 哲学部が下級であるのは、それが他の学の基礎となるべきものだったからである。それはいわば、今で言うところの「教養部」のようなものであった。
 こうした哲学部での準備の上に、特殊な問題を扱う上級学部の過程に進むことになる。カントは、人間にとって本質的な問題として、身体の健康、国家における法の遵守、来世の幸福を挙げ、それぞれが医学、法学、神学に対応するのだとしている。
 ところで、上級と下級との区別は、そうした継起的な順序による区別だけではなく、最も大きな違いはむしろ、国家との関わりであった。つまり、直接に国家、国法を扱う法学のみならず、神学、医学に至るまで、これら三つの上級学部は国家の統制下におかれたのである。それに対して、伝統的な自由七科(リベラル・アーツ)を引き継いだ哲学部は、それこそ国家からも自由であった。法学が国法により、神学が聖書に基づき、医学が医師法に規制されるのに対して、哲学は自由な、自律的な理性によって、諸学の吟味あたり、真理性の保証にあたる。この意味では哲学部は三つの上級学部に対して、上級審(「理性の法廷」)にあたるのである。
 国家の統治は、国家の意志に基づくと同時に、その国家の意志は国民の意志ないし欲望(ヘーゲルは市民社会を「欲望の体系」と呼んだ)でもある。そうした国民に迎合しつつ統治しようとする国家の意志に沿った上級学部と、理性に従う哲学部とは、こうして闘争に入ることになる。カントの考えでは、これは国家が無法にも仕掛けてきた哲学部への挑戦であり、否定さるべき争いである。
 しかし、国家ないしは政府の介入によらない場合でも、それぞれの基準に従う上級学部の学説が理性に合致しない場合がある。カントは、こうした争いに関しては肯定的であり、むしろ必要な闘争であるとしている。
 シェリングの「学問論」(大学での講義を元にしている)は、そのタイトルの地味さに反して、シェリングの作品の中でも最も完成度の高い著作である(シェリングの他の作品があまりにもまとまりがないからそう見えるだけかもしれないが)。数学、実証科学、美学、宗教、そして勿論哲学も含めて、多岐に亙る論述であるため、各章(講義)のコンパクトな記述は非常に密度の濃いものとなっている。
 その中でシェリングは、名指ししていないものの、明らかにカントの所説に対して批判を投げかけている。カントにとって哲学は、第一に認識批判である。それは学説として内容を持つ以前に、認識そのものの可能性を問い、その形式を問題とする(→スピノザ対カント)。しかし、シェリングにとってはそうではない。哲学そのものが根源的な知(Urwissen)であり、むしろ、他の諸学は哲学が内在している諸機制にしたがって分化し現れ出てくるものである。哲学は「一切であるもの」である。
 ここから引き出されてくる結論は、第一に、諸学の争いは存在しないことである。それらが分離されるのは哲学の内的な構造にしたがってであって、哲学そのものと、それら他の特殊な諸科学とが対立することはありえないのである。第二に、哲学は特殊な諸学とは違うのだから、それ固有の学部を持たない(日本で「教養部」と呼ばれるものは、ドイツではその当時から現在まで、依然として現実に「哲学部」である)。哲学はそうした形で客観化されることはないのである。むしろ、哲学が客観的な姿をとるのは、芸術においてである(*)。シェリングは、こうして哲学部そのものを否定し、「芸術学部」(**)しか認めない。したがって、カントが想定したような学部の争いは、否定されることになるのである。
 こうしたシェリングの思考は、明らかに哲学というものを彼独自の視点から、しかも極めて抽象的に捉えたものである。これに対してカントの立論は、むしろ、現実に起こり得る、あるいは、かつて起こった様な、諸学の争い(例えば、哲学と神学との争いは、中世から近代に至るまでの因縁の対立である→二重真理説→トマス対シゲルス)、あるいは、学と国家との対立を念頭においたものであり、その意味ではシェリングの思考よりも遥かにリアルな問題を扱っていると言える。
 *この点についてはデリダが注目し展開している。
 **ドイツ語のKunstは芸術とも技術も訳せるし、libelal artsのartの翻訳でもありうる(特にKuensteと複数の場合は明らかにそうである)。シェリングは、テキストの該当箇所で、「哲学の真の客観化は芸術(単数形クンスト)のみである」としつつ、「したがって哲学部はあり得ず、芸術(複数形キュンステ)の学部しかない」と言っている。したがって、「芸術の学部」はリベラル・アーツのような教養部のことを指しているとも理解できる。


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