デカルト × カント

法則


 デカルトは言っている。「だが、私はあえていうならば、哲学において常に論ぜられつつあるすべての主要な問題に関しては、わずかな時間をもって自分を満足させる手段を発見したばかりではなく、若干の自然法則をも私は指摘したのであった。十分に反省するならば、この世界においても、有る、もしくは、成りつつある、すべてのものには、それらの法則の性格に守られていることがどうしても疑われぬように、神はこれを自然の内に定め、この種の知識を私どもの精神に刻みつけたのである。」 デカルトは、あらゆるものを疑うという方法的懐疑の果てに、「私は考える」という事実に辿り着いた。これによってデカルトは、真理の基礎を意識(直観的な明証性)に置いたのである。しかし、これ(懐疑)によって危うくなったのは、自然の認識である。そこでデカルトは、我々の心の中には「完全性」の概念があるとし、そしてその概念の原因となっているものがあるはずだとする。つまり、神である。そして、この神を介して、自然認識の真理性を確保しようとする。「神はこれを自然の内に定め、この種の知識を私どもの精神に刻みつけたのである。」(こうしたデカルトの考えに、アウグスティヌスの影響を読み取ることもできる)。
 これに対して、より単純な方法をとったのがカントである。カントは、少なくとも自然認識(理論的認識)に関しては神の必要を認めない。カントは言っている「理性は現象を法則として認める手段となるような原理を片手にもち、その原理から考えられた実験をもう片方の手にもって、自然へと向かわねばならない。それは自然から学ぶためではあるが、しかし教師の述べたことは何でも鵜のみにする生徒としてではなく、教師が提出する質問に対して答えることを証人に強いるように任命された裁判官としてである。こうして物理学の思考方法の極めて有利な革命すら産み出すようなアイディアは、理性が自然から学ばねばならないことを、即ち理性自身ではまったくその知識を持たないことを、彼自身が自然の中に入れた原理にのっとって自然の中に求めねばならないのだ。」 つまり自然に法則を与えるのは、デカルトの場合のように神ではなくて、我々自身の理性なのである。デカルトが確立した近代的主観性は、こうしてカントによって超越論的な主観性として刷新されることになる。デカルトからカントへの距離は、短いようで遠く、遠いようで短い。つまり、認識の基礎を意識(主観性)に求めるという点では両者は共通であるが、認識の場面のおいてその意識が受動的である(デカルト)のか、能動的である(カント)のかは全く方向が違うとも言えるからである。しかし、また翻って、カントの言う超越論的な主観性は要するにデカルトが要請した神を言い替えたものに過ぎないとも言えるのである(→カント対アーペル)。


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