プラトン × アウグスティヌス

世界の創造


 アウグスティヌスの「告白」は、「赤裸々な」告白と懺悔によって有名だが、実のところ「告白」の部分は第十巻までで、残りの三巻分は聖書の「創世紀」解釈に費やされている(パッチモンの翻訳などではこの部分が省略されているからだまされないように)。
 「創世紀」の冒頭部分を引き延ばした解釈だけに、実に様々な問題が長々と論じられているが、後世への影響の点でも最も重要な問題は、創造の材料に関する議論である。
 「告白」の部分でも述べられているように、アウグスティヌスはキリスト教に改宗する前は、マニ教の影響を受けていた。マニ教は、善悪二元論であって、善なる神が世界の善を産み出し、悪なる神が世界における害悪を産み出すことになっている。つまり、世界を構成している材料は、善悪二神の中にあったものである。こうした考えは、善悪二神論の点では唯一神教たるキリスト背反することは勿論だが、アウグスティヌス以前のキリスト教徒たち(テオフィロス、ヒラリウスら)の間では、世界の材料は神の中にあるとか、あるいは、どこかから持ってこられるのだとする説があった。こうした説を批判し、マニ教を乗り越えて、「無からの創造」の立場を明確に打ち出したのがアウグスティヌスだったのである。世界は神「によって」作られたのであって、神「から」(神を材料として)作られたのではない。
 これ以後、キリスト教の創造説の決定版として扱われることになる「虚無からの創造」説は、実に様々な含意を持つ。1)神と世界との関係について:世界の材料が神の中に予めあることになれば、これは神と世界との連続性を主張することになる、つまり、神の超越性を否定してしまうことになる(→汎神論=無神論)。逆に、無からの創造説によれば、神の超越性が保持できる。あるいは、2)創造以前の世界と時間について:創造以前に何等かの材料があったということは、要するに世界が今のように形成される以前から世界(少なくともその材料)は存在したということになる。これは世界永遠説であり、キリスト教とギリシャ哲学との最大の争点の一つとなった(→トマス対シゲルス)。また、3)神について:創造以前に何らかの存在があったということは、神の他に神と並ぶ存在を認めることになり、神の絶対性と無限性を否定することになる。キリスト教では、神は唯一、無限、全能、絶対であり、その無限なる力は世界創造の際に最もよく発揮されるのである。
 プラトンの「ティマイオス」は、幻のアトランティス大陸の伝説に触れたことでも有名だが、デミウルゴスによる世界創造について触れている点でも知られる。しかし、このデミウルゴスはキリスト教的な創造者、造物主としての神とは全く違っている。勿論、礼拝の対象となるような神ではない。
 まず、デミウルゴスには、世界を作る材料ないし場所が与えられている。これをコーラーと呼んでいる。また、その材料に形を与えるようなサンプルも予めある。即ちイデアのことである。キリスト教が忌み嫌った世界の永遠だが、プラトンは勿論そんなことに御構い無しである。そもそも、プラトンが求めたのは永遠・不変なるものとしてのイデアなのであるから。そして創造された世界は、イデアの写しとして時間の中にあり、有限で生成消滅する世界、死すべきものたちの世界である。
 こうした材料と設計図が予め与えられている神=デミウルゴスの仕事は、むしろ建築家の仕事のである。したがって、言わば職人としての神である。これに対して、キリスト教の神は、芸術家としての神とでも呼ぶべきものである(→ヒポクラテス対デューラー)。あるいはまた、デミウルゴスと世界との関係が、制作者と制作物の関係であるのに対して、キリスト教の神と世界との関係は、父と子との関係である。デミウルゴスの場合に礼拝が問題にならないのは、世界との関係が人格的なものでないからなのである。
 [プラトン的な神概念(ギリシャ)と、アウグスティヌス的な神概念(ヘブライズム)の中間形態をなすのが、新プラトン主義の大物プロティノスの考え(ヘレニズム)である(→アリストテレス対プロティノス)。アウグスティヌスがマニ教の次にかぶれたのが新プラトン主義だった。]


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