デカルト × ライプニッツ

体系について


 「厳密な方法」:まるで疑いようのない/つまりそれに従わなければ懐疑や誤りの中に落ち込んでしまうが故に結局はそれを採用せざるを得ない「究極の立脚点」から開始して、条件と結論の連鎖、つまり演繹によって、すべてを導き出すこと。そうして作られる「学問の体系」をデカルトは「木」に例えた。根(形而上学)−幹(自然学)−枝(機械学・医学・道徳)。
 この「厳密な方法」が「幾何学の方法」に倣ったものであること、それ故まるで「数学的」でさえあることを我々は信じ込む。「デカルトの木」は、しかし逆立ちすることがない。その導きの糸=演繹は、順序不可逆的なステップである。
 「体系的」であるにしても、このような仕方は少しも「数学的」でない。これを「数学的」と見なすことは、証明の厳密性を「証明の唯一性」に帰着させる誤りを犯す。
「これしかない」から、証明は厳密なのでも正しいのでもない。なるほど「デカルトの木」の根元から「木」のどこか(枝の先か幹の中程か)にある命題へ至る道筋はたった一つしかない。ところが「数学」の命題についていえば、いくつもの異なった証明を与えることができる。「多くある」ことは、それぞれの証明の値打ちを下げることでない。あるいは、「木」のように数学の体系を考える人は、異なった公理(根元)を選択することは、まったく異なった数学を構築することに等しいと考える。これはしばしば間違っている。異なった公理群から、まったく同じ定理を導き出すことができるし、まったく同じ体系すら構築可能なことだってある。それ故に我々は公理を選択することができるのだし、「方法」を選び取ることができるのだ。


inserted by FC2 system