アイネシデモス × アグリッパ

懐疑論について


 ヘーゲルのいうように、懐疑論は結局は論駁不能である。「じっさい、人がどうしても懐疑論者であろうとするならば、かれを説き伏せること、すなわちかれを肯定的な哲学へつれていくことはできない----それは、手足がしびれている人を立たせることができないのと同じである」。
 けれどすべての哲学を、肯定的な哲学(要するにヘーゲルの哲学)への契機としてみるヘーゲルなれば、懐疑論にも効用がある。その効用からして、ヘーゲルは古代の懐疑論を二つに(二つの段階に)分けてみせる。
 懐疑論マークIは、アイネシデモスの提起した次の10個の論法(トロポイ)に現れる。(1)動物相互の違い(2)人間相互の違い(3)感覚器官の構成による違い(4)様々な状況の違い(5)空間的(位置・距離・場所の)違い(6)相互混合による違い(7)事物の構成による違い(8)事物の関係性・相対性による違い(9)事象の頻繁さ/習慣による違い(10)道徳、法律などによる違い。アイネシデモスは、これら10個の観点から、意見の不一致が必然的であることを示し、この議論に基づいて事物に対する唯一とり得る正しい態度が、判断停止(エポケー)以外にあり得ないことを示してみせた。実のところこの懐疑論の攻撃対象は、(常識/日常意識の)ドグマティズムであって、ドクマティックな哲学ではない。これら古い論法(トロポイ)はすべて事物に関わっていて、故に事物に対する関わり方に判断停止(エポケー)を突き付ける。言い替えれば、これら古い論法(トロポイ)は「経験的」であって、すべての経験的知を懐疑によって相対化するけれども、「哲学」を、つまり「概念」といったものを相対化することはできないのである。
 懐疑論マークIIは、古い論法(トロポイ)に対してアグリッパが上げた、次の5個の論法(トロポイ)に現れる。(1)異論が存すること(2)論証の無限後退(3)諸前提の相対性(4)論証が(それ自身論証され得ない)仮定を必要とすること(5)循環論。新たに提出された判断停止(エポケー)を帰結する5つの論法(トロポイ)は、すべて議論に関わり、概念に関わっている。
 もちろんヘーゲルの「分類」はすべて、自己の体系の構築と、カント哲学の論駁にささげられている。批判哲学がやっつけるのは懐疑論のマークIにすぎず、カントはマークIIの論法(トロポイ)の中では「七転八倒」せざるを得ない、とヘーゲルは言うのだが……(→ライプニッツ × カント 思弁哲学と批判哲学)。


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