キケロ × デカルト

記憶と方法



 デカルトは「物覚え」が悪かった。しかもそれを気に病んでいた。そのことが、彼をしてシェンケリウスの『記憶術』を繙かせ、ルルスの術に関心を寄せさせた。

 一方、史上最高の弁論家の一人であるキケロは、記憶術のプロデューサーであった。「記憶術の祖」として知られるシモニデスのエピソードは、実のところキケロの『弁論家について』を出典とする。「とある館で催されて宴に出席していたシモニデスは、女神の啓示を受けて館の外に出た。そのとき、館の天井が落ち、出席していた町の名士たちはほとんど死んでしまった。その死骸たちの身元を判別するために、死体の倒れていた位置と場所から、当の死体が誰であるかを思いだした」。キケロはこのエピソードを紹介したのち、記憶をトポス(場所・論点・論題)と結びつけることで、記憶術を「術」として成立させる。
 アリストテレスやキケロにとってレトリックは無論言説を飾りたてる術ではなく、実践理性全般に関わる術そのものだった。その要である「発見の術」は、トポスの運用にかかってくる。トポスは化学反応の触媒のように、反応物質(論じられるべき問題)に収まるべき場所を提供することで、その「反応」を促進する。つまり取り扱われんとする問題は、トポス(論点=場所)の上に収まるべき場所を見出すことで、問われ吟味され論じることのできるものとなる。そして「発見の術」そのものでもあるトポスが、いまや「記憶=想起の術」を折り重なり合う(プラトンの想起説の残響を聞き取ることは可能だが、ここでは余計なことだろう)。それよりも、レトリックの現場、実際の議論は、一般に記憶(個人的記憶と集団的記憶=習慣)のうちに蓄積された多数の論点・論題=トポスをつかってなされることに注意しなければならない。隠れたもの(論争の急所)は、記憶=想起(の適用)によって発見されるのである。準拠枠としてのトポス。問題を考える・問いを発するための論点=場所。それ故にトポスは数多く、議論にあたってあらかじめ仕込まれていなくてはならない(現にキケロは誰よりも周到にそうした)。ここにおいて、レトリック(弁論術)にとって記憶術は単なる「演説を覚えるための術」以上のものとなっている。

 記憶術は、古典レトリックの5段階(発見・配列・措辞・記憶・陳述)のひとつを構成し、弁論術(レトリック)の一部門として、ヨーロッパの知的伝統のなかで永く伝えられ鍛えられていったが、またフロネーシス(賢慮)とも結びつき西洋の人文的知の伝統をかたちづくる。そしてこの結合を用意したのもやはりキケロだった(『発見について』)。
 個人的記憶と、とりわけ集団的記憶への努力は、まさしく集団的記憶としての道徳的習慣を習得せんとすることと、そこから益あるものを引き出そう(想起しよう)とすることとに合致する。賢慮は普遍的知識を個別的事物に適用することと、未来のために過去を役立て得ることに存するが、これらの性質は記憶のそれでもあった。こうして人為的記憶は倫理化され賢慮の一部となる。
 立派に語ること(レトリック)と結びついた賢慮を、(プラトンから連なるいわゆる「西洋哲学」の流れには反して)イソクラテスはフィロソフィアと呼んでいた。キケロはそのふたつの間に記憶術を発見しあるいは発明して、やがてヨーロッパの人文学的知(それは「人間についての知」であると同時に「人間になるための知」でもあった)の源を作った。後に我々が「教養」と呼ぶものの要件が、そこではすべて満たされていることに気付くだろう。

 記憶と場所の結びつきとしての記憶術はまた、一方では象徴的空間をインデクスとする記憶術、ルネサンスの「記憶の世界劇場」につながり、もはや空間に配置するイメージを必要としないルルスの術へと繋がっていく。デカルトのそれらに対する(意外なほどの)「関心」は先に述べた通りだが、彼が記憶術に下した「評価」は酷評を極め、それらをペテンだと決めつけた。彼は結局、伝統的な記憶術にも、新方法であるルルスの術にも背を向ける。彼が見出したのは、「すべての知識に関してそれを覚えておこうとするとき、なんら記憶の必要がない」やり方だった。すべてを唯一の何かに還元すること、まったくのゼロに立ち戻りそこから始めること。すべてをそこから演繹していくこと。つまりは過去と伝統から手を切ること。記憶を消すこと。それこそが、デカルトがやがて自身の「方法」と呼ぶところのものとなる。ここに「賢慮の知」をおさえて「方法の知」(あるいは「知の方法」)が台頭し、「知」の近代(あるいは近代の「知」)がはじまる。


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