アリストテレス × ライプニッツ

可能性について


 アリストテレスのいうデュナミス(dynamis)は、まずもって「能力」であって、その限りで目的的であることを避けられない。たとえば「家を建てる」という能力は、当然「家を建てる」という目的を含んでいる。むやみやたらな無方向な「能力」はあり得ない。アリストテレスのデュナミス(dynamis)が論理的意味を含む「可能性」への萌芽を含むようになったのは、一つ覚えの三段論法を振り回すアリストテレスよりもおそらくは論理の考察に力をそそいだと思われるメガラ学派との対決を通してであった。メガラ学派は「現実に可能となっているもの」として可能性を現実性と結び合わせたが、これに対して、アリストテレスは(『形而上学』第九巻第三章)、またもや「能力」でもって論難するが、紆余曲折の末、「あるものが存在することも可能であるが、現実には存在しないことも許されるし、また逆に、それが存在しないことも可能であるが、しかも現に存在しているということも許される」と主張するに至っている。つまり可能性とは「現実性することが不都合(不可能)でない」ということである(現実性⊂可能性となることに注意すること)。このネガティブな定義において始めて、我々が「未知なる可能性」などと口にする意味での、あれもこれもという無方向な「可能性」が可能となる。選択の問題も生まれ得るようになる。
 ところでライプニッツはこの「不都合でない」部分を、論理的な無矛盾と結び付ける。Aであるものが同時にAでないことはできない。論理的に矛盾することは不可能である。では論理的に矛盾がないことは可能であろう。しかしだからといって、可能なことがすべて現実になる訳ではない。可能なるものが現実になるためには他に理由が要るだろう。だが注意すべきなのは事態の「可能性」は互いに結び付いていて、ある可能性の現実化は、他の「可能性」を不可能にすることがある、ということだ。ある物を赤く塗ることは可能だし、青く塗ることも可能だが、赤く塗ると同時に青く塗ることはできないのである。
 ライプニッツの「可能世界」は、可能性(possible)ではなく共可能性(compossible)という概念で規定される。ひとつの実体(モナド)は、内に矛盾を含まない限りで可能的である。複数の実体(モナド)について、互いに矛盾しないならば、共可能的である。
 ところでモナドというのは個体概念であって、その個体についての全命題を含んでいる。つまりソクラテスという個体についての、互いに共可能的な属性の集合であって、しかも最大のものである(ソクラテスという個体について、互いに矛盾無く成立する《すべての》属性の束であるから)。したがって「ソクラテスは死すべき存在である」という命題が真であるというのは、ある可能世界において、属性「死すべき存在である」が、モナドの要素になっている、ということである。
 あるモナドAから出発して、それと共可能的であるモナドをすべてかき集めることにしよう(そのモナドと共可能的なモナドの集合であって、しかも最大のもの)。そうして集まったモナドの集合が、あるモナドAを出発点にする(共可能性により類別された集合)可能世界HAである。こうしてモナドB,C,D,……を出発点にする可能世界HB,HC,HD,……ができあがるが、こうしてできた複数の可能世界を比べて「大小関係」があることがあるだろうか?つまり可能世界HAよりもHBが大きく豊かである、つまりモナドが多いといったことがあるだろうか?より小さな可能世界HAは、HBに比べて少ないモナドしか、共可能性のもとに集めることができなかったのである。つまりモナドAと共可能的でないモナドがあった、逆にいえば、モナドAはすべてのモナドと共可能的であるようなモナドでなかった、何等かのモナドの属性と矛盾する属性を含んでいたのである(可能世界HAの内においてはその限りではない。これは矛盾しないモナドばかりを集めた可能世界なのだから当然であるが)。
 ここから次のことが言える。すべてのモナドを含むような最大可能世界は唯一である。つまりモナドA,B,C,D,……どのモナドを出発点にしても、すべてのモナドを含む最大可能世界が出来上がるのだから、すべてのモナドは共可能的で、可能世界HA,HB,HC,HD,……はみな同一である。「同一の都市でも様々の異なった方面から眺めると全く別の元と見え、展望としては幾倍にもされたようになるが、それと同じく、単純な実体が無限に多くある為に、その数だけ異なった宇宙があることになる。ただしそれは各モナドの異なった観点から見た唯一の宇宙の様々な展望に他ならない」(「モナドロジー」57)。
 神の仕業があるとしたら、無数の可能世界からたったひとつ(最上の)現実世界を選んだことでなく、すべてのモナドを互いに共可能的であるように「調合」したことの方だろう。もっともそれに失敗したとしても、一つの可能世界の内からみれば、あいかわらずその世界は無矛盾にして唯一であり、矛盾するモナドはモナドで(世界の外で)別の可能世界を作るだけ(それはいくつもでき、しかも互いに排他的である)である。無矛盾だけが望みなら、これで手を打つことも可能である。
 だから言い替えると、神の仕業があるとしたら、無数の可能世界からたったひとつ(最上の)現実世界を選んだことでなく、すべての可能世界を最大化して(世界の「外」をつくることなく)、たったひとつの最大可能世界として重ね合わせたことだろう。


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