ライプニッツ × ウィトゲンシュタイン

可能世界について


 ライプニッツの「可能世界」は、言うまでもなくモナドを基礎に構成される。モナドというのは個体概念であって、その個体についての全命題を含んでいる。ソクラテスのモナドは、「ソクラテスは〜である」という場合に成立するすべての「〜である」(属性)の束である。したがって「ソクラテスは死すべき存在である」という命題が真であるというのは、属性「死すべき存在である」が、その可能世界において、ソクラテスのモナドの要素になっている、ということである。
 それ自体が属性の束であるモナド(個体概念)を基底とするライプニッツの「可能世界」に対して、ウィトゲンシュタインの「可能世界」は、対象を基底とする。世界は事実の総体であって、対象(事物、物)の総体ではない(『論理哲学論考』1.1)が、事実とは「現に成立している諸事態(状況)」(『論考』2)であって、また事態とは「諸対象の結合」(『論考』2.01)である。
 ウィトゲンシュタインには、世界を構成するのは(成立していたりしていなかったりする)事態であるが、諸事態の成立/不成立にしたがって可能世界がある。現実の諸事態の成立/不成立が現実世界であるが、対象は個々の事態の成立/不成立には依存しない。いわば個々の世界には依存しない、すべての(現実/可能)世界を貫いているのである。
 ここにライプニッツとウィトゲンシュタインの「可能世界」の差異がある。すなわち個体はそれぞれの世界に縛り付けられたものか、あるいは多数の世界を貫いて同定可能なのかという貫世界同定の問題において、「属性の束であるモナド」と「事態に依存しない対象」との対立があるのである。


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