ソクラテス × ディオゲネス

貨幣改鋳者としての哲学者


 ソクラテスは神託を受けて哲学者としてデビューし、キニクのディオゲネス(樽の中の哲学者)もまた神託を受け、まずは貨幣改鋳者(贋金造り)としてスタートした。
 ソクラテスは著名な知恵者のところへ赴き、問い尋ねることで、知恵者の持つ知が偽物であることを、知恵者が無知であることを、明るみにだした(それで彼はひどく怨まれたし、処刑されもした)。
 ディオゲネスに下された神託は「ポリティコン・ノミスマ(国の中で広く通用してるもの=諸制度・習慣=道徳・価値)を変えよ」といったものだった。彼はそれに従って、実際に通貨=価値を変えてみせた。ディオゲネスはそのため、国外に追放されたのである。
 ソクラテスは、つまり通用している知が「贋金」に他ならないといっているのであり、一方ディオゲネスはあえて貨幣偽造を行ないそれを発行することで、あらゆる通貨が「偽物」に過ぎないことを示して見せているのである。
 ところでソクラテスは、その否定・相対化の末に、地上の流通に属さない「真なる知」を導いて行くのであるが(ソクラテス−プラトン)、ディオゲネスはただすべては「贋金」だというだけである。ディオゲネスは、ソクラテスばりに己の無知を指摘されても、このように答えるのである。「たとえぼくが知恵のあるふりをしているだけだとしても、そのことだってまた哲学をしていることなのだ」(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシャ哲学者列伝』第6巻第2章64)。
 ソクラテスの「懐疑」においては、(地上の流通に属する知である以上)ソクラテス自身もまた「無知=贋金」である他ない。が、それを知ること、自身が「無知=贋金」であることを知ることが、他ならぬ「真なる知」への起点となるのである。ソクラテスにおいては、「無知」を知ることと、「無知を知ることの意義」を知ることが、彼をして哲学者たらしめているのであるが、その弁証法を振り出しに戻してもなお(そして実際は何度でも振り出しにもどるのだが)、ディオゲネスは貨幣偽造者=哲学者なのである。ディオゲネスが行なったのは「真なる知(貨幣)」を造ることでなく、「無知=贋金」を生み出し流通させることで、「唯一の貨幣」という価値を破産させることだった。ソクラテスによって「無知=贋金」と鑑定されたものたちが、ディオゲネスの手の中でよみがえる。否、知=貨幣は、「鑑定」によって「無知=贋金」なのではなく、常に/すでに「無知=贋金」であるのだ。それ故にこそ「知恵のあるふりをすること(無知=貨幣偽造)」をも「哲学すること(知=貨幣)」なのである。さらにいえば、「貨幣を偽造すること」なしに、人は考えること(哲学すること)はできないのである。


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