ヘーゲル × フォイエルバハ

転倒としての唯物論


 若いフォイエルバハは通常「ヘーゲル左派」と分類されている。その学位論文が圧倒的なヘーゲルの影響下に書かれたことは勿論、フォイエルバハの思考の枠組みがほとんどヘーゲルによるものだからである。
 「ヘーゲル左派」と言う場合、「ヘーゲル右派」と「ヘーゲル中道派」もいるわけで、右派の方はキリスト教寄りの立場、中道は哲学史へ向かったということになっている。ヘーゲル左派は「青年ゲーゲル派」とも呼ばれるように、「進歩的・ラディカル」な少壮の哲学者で構成されていた。
 しかし、いわゆるヘーゲル左派の中で、哲学史の中に名を残しているのは、フォイエルバッハとシュティルナーだけ、無理に付け加えてもマルクスくらいのものである。他にもバウアーとかルーゲとかの有象無象が沢山いて、それぞれに面白いのだが、マルクスにインパクトを与えたのは、やはりフォイエルバッハだった。同時に、そのインパクトは、一時的なものにすぎなかったとしても。
 フォイエルバハの考えは、基本的にはヘーゲル主義の転倒であると言えば片付くようになっている。ヘーゲルの考えは、一言で言えば、世界は絶対者としての理念の自己展開の過程であるというようなものである。スピノザ的な実体を批判したヘーゲルは、実体(静態的な世界観)ではなく「主体」(動的な、プロセスとしての世界)こそが必要なのだと主張した。その主体はヘーゲルにとって当然精神でなければならなかった。
 しかし、フォイエルバハからすれば、こうしたヘーゲルの考えは、抽象的なもの、観念的なものを第一義的なものと考える点で全く転倒している。むしろ、具体的なもの、感性的なものから出発しなければならないのだ、と。
 こうして、ヘーゲル的観念論の転倒であるからには、フォイエルバハの哲学は唯物論でなければならない。実際その通りではある。しかし、フォイエルバハの歩みは、厳しいことを言えば、ここでストップする。なぜなら、ヘーゲルの絶対精神の代わりに、フォイエルバッハの場合に「主体」となるのは、「人間」なのだが、これもある意味では極めて抽象的なものだからである。
 そのことを明確にするのは、いわゆる「疎外論」である。マルクスが後に捨ててしまったこの立場は、ヘーゲルとフォイエルバハの立場の共通性を浮き彫りにしてしまう。
 「疎外」とは、あるものが、自分の本質・本性を外に出し、そこから離れて(疎遠となって)しまうことである。例えば、自分が優秀で指導者の素質があると思っている旋盤工は、自分が疎外されていると思うということになる。逆に、こうした前提に立つ限り、「今に見ていろ」的な欲望が生じることにもなる。つまり、自分の本質を取り戻そうとすることになるわけである。
 ヘーゲルの場合で言えば、自然状態にある精神は、まだ自分の本質に目覚めていない、つまり、疎外されている。こうした状態を克服して、自分自身を取り戻したとき、初めて精神は精神となる。同じ様に、フォイエルバハなら、宗教といったものは、本来なら人間の本質であるような、愛、創造性、主体性などが疎外された状態であることになる。つまり、キリスト教が「神」と呼んでいるのは、実は人間の本質(これをフォイエルバハは人間の「類的本質」と呼ぶ。つまり、小泉今日子とか大江健三郎とかの個々の人間の本質ではなく、人間の全体としての本質)のことなのであり、それは人間の疎外態なのである。だからこそ、そうしたものを人間の手に取り戻さなければならない。
 こうして、ヘーゲルの絶対的観念論とそれを転倒したフォイエルバハの人間学的唯物論とは、実は同じ土俵の上に乗っているのであり、その対立そのものが極めて抽象的な構図に収まるようなものなのである。
 しかし、フォイエルバハはこうした詰らなさに尽きるものでもない。むしろ、フォイエルバハを独自の思想家と考えることこそが上のような凡庸化につながるのである。フォイエルバハの優れた資質は、むしろ、周辺的なところに現れている。例えば、「人間は彼が食べるところのものである」といった論文は、その論旨の面白くなさと着想そのものの非凡さがよく表れていると言える。また、フォエイルバハの論文の多くは、アフォリズム形式(「将来哲学の根本命題」「哲学改革のための暫定的命題」)か、そうでなければ注釈(「キリスト教の本質」「神統論」「人間は彼が食べるところのものである」)であることも注目してよい。


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