カント × シェリング

数学の位置付け


 数学についてシェリングは、算術と幾何学の区別を、それぞれ有限/無限という区別に対応させ、更にこれを特殊と普遍に振り分ける。つまり、算術は有限で特殊な対象に関わるものであり、幾何学は無限で普遍的な対象に関わるというのである。しかし、対立していたり区別されたりする二つのものがあれば、それを総合しようとするのがドイツ観念論の特徴である。シェリングは、算術と幾何学の総合として哲学を、有限と無限の総合として永遠を、特殊と普遍との総合として高次の普遍的統一を持ち出す(この三つ組は更に、アレゴリー、図式、シンボルという三点セットと対応させられる)。つまり、結局哲学が一番偉いのである。数学は抽象的な知であり、実証科学が具体的な知であるに対して、哲学はその両方の特色を兼ね備えた「知的直観」を持っているのだ(ただし、アレゴリー=算術/図式=幾何学に対して、シンボルの数学としての解析幾何学を想定していた、というシェリング解釈がある。あるいは、シンボル的な数学とはピタゴラス派の哲学に当るのだという解釈もある)。
 これに対してカントは、哲学の曖昧さに愛想を尽かしていた。各自がてんでばらばらにご託を並べる形而上学など糞食らえであった。カントの批判哲学とは、数学及び自然科学の圧倒的な成果(特にニュートン力学)を目にして、何とか哲学を数学並に確実なものにしようとする試みであった。その結果カントは、哲学の対象は形而上学的なものではなくて、むしろ数学や科学の基礎付けだとしたである。これは、プラトンにおける知の三分類、つまり、ドクサ/ディアノイア/エピステーメーの順位関係を逆転したものだった。プラトンは数学的な知(ディアノイア)を、単なる意見(ドクサ)とは区別し、普遍的な知であるとしたが、それはまだ分別的な悟性であって、イデアに関わる哲学的な知(エピステーメー)より低い段階にあるとしたのである。なぜなら、数学は感性的なものに頼る側面を持っているからだ。こうした分類は、カントでは感性/悟性/理性という三分法に当るだろうが、カントは、それまで最上のものとされていた理性を「批判」し、理性が悟性以上のものを目指す時には何も確実なことは言えないのだとしたのである(理性は「構成的」には働かない)。こうした逆転には、デカルトに始まる解析学の影響が大きい。プラトンが感性的なものに依存していると見た数学は、解析学によって、感性的なものを排除することに成功したからである。
 したがって、シェリングが哲学を数学の上位に置いたこと(ただし、近代数学を見ていたシェリングでは、既にプラトン的な数学観を採ることはできなかったが)は、カントに対する反動であり、プラトンへの先祖がえりだったと言える。


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