ロック × ライプニッツ

生得観念について


 ロックは生得観念を認めない。人間は生まれつきどんな観念も持っていない。生まれたばかりの人間は「白い石版(タブラ・ラサ)」に例えられる。「白い石版」は、経験によって何か書き込まれるのを待っている。
 それに対してライプニッツは、生まれたばかりの人間を「大理石」に例えてみせる。大理石は概ね白くても、その中には脈(筋)が走っている。人間は己には知ることもできない「微小表象」をもって生まれてくる。あらゆる「大理石」が脈(筋)によって、どのように彫像されるかを決定づけられている訳ではないように、「微小表象」は人間精神を決定づけはしない。しかし経験によって書き込まれる前の精神は、決して白紙ではない。
 実はロックはただ「時間の針を戻す」ことで、デカルトの懐疑を肩代りさせる。デカルトが懐疑の末、あらゆる誤謬の原因(経験)を排したその到達点、そしてデカルト哲学の立脚点を、ロックはいとも簡単に、人間精神の出発点(幼児)に(そしてやはり自分の哲学の立脚点として)重ね合わせているのだ。それ以上は遡行できない、汚れなきタブローから彼らは開始する。
 ライプニッツの「大理石」はそれに否という。ライプニッツはロックの肩ごしに、デカルトをも批判している。人間は決して0(ゼロ)から始めることはできない。海辺で聞く「波のざわめき」についてライプニッツは語っている。「波のざわめき(ノイズ)」は、それぞれは聞こえない(それと表象されない)無数の音の重なりである。そのそれぞれは表象されない無数の音が、「微小表象」である。「魂が己の内に読み取ることができるのは、そこに判明に表象されているものに限られている。魂は己のひだを一挙に開いてみるわけにはいかない。そのひだには際限がないからである」(モナドロジー61)。魂が聞く判明な「音」の背景には、いつも底のない「微小表象」のざわめき(ノイズ)がある。そんなノイズをぬぐい去ること、括弧に入れること、奥へと分け入りクリアーな領域へ到達すること等からはじめる哲学にライプニッツは与しない。


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