アリストテレス × ヒューム

必然性について


 存在論的なステージ:アリストテレスにとって、あらゆる知識(と呼ばれるに足るもの)は必然的である。彼にとって、「必然性」は経験によって減じたり損なわれたりする余地はない。それは、たとえばアリストテレスの「自然学」が、なんら経験から独立した、度し難い「アプリオリズム」を帯びていることを意味しない。なんとなれば「何かを知っている」ということは、彼にとって「知られている当のものが、何故そうなくてはならないか」を知っていることだからである。知識は、事物そのものが持つ必然性にまでとどいてなくては知識とはいえない。つまり彼の「自然学」が、そしてあらゆる知識というものが、必然的真理からなるのは、その対象−つまり事物の本質が「別様ではありえない」必然性をもつからであり、それについての知識が経験的に得られようが、また得られまいが、事物の存在を構成する(事物の存在に存する)必然性は少しも影響を受けないからである。必然性は、存在論的必然性である。
 認識論的な(あるいはそのネガである懐疑論的な)ステージ:ヒュームにとっては、必然的な知識などあり得ない。近世以降の哲学においては、「必然性」は「確実性」の特殊な場合に過ぎなくなる。「必然的であるならば確実的である」、そしてその対偶「確実的でないならば必然的でない」を通じて、存在論的な必然性(たとえば自然(法則)の必然性)は駆逐される。
 自然法則は、必然的な因果関係、原因と結果の間の必然的連関として捉えられていた。ところがヒュームは次のように主張する。----なるほど私は事象Aを観察した後に事象Bを観察した(事象Aの感覚印象を得た後に事象Bの感覚印象を得た)。だが事象Aと事象Bの間にある必然的結合なるものを観察した訳ではない(事象Aと事象Bの因果関係の感覚印象なんて得なかった)。観察されたのは、せいぜい事象Aと事象Bの間の「継起的関係」にすぎない。加えて云うなら、そうした「継起的関係」が将来に渡って観察される保証はない(というか、そう信じる合理的理由はどこにも見いだせない)。「将来が過去に類似するという規定は、いかなる議論にも根拠づけられていず、まったく習慣から導き出されたものである」。ここではあらゆる因果的推論と帰納法がマヒさせられる。まともに取るなら、経験主義者たちはもちろん我々は、何事も経験と観察から学び得なくなるだろう。ヒュームは実のところ「存在論的な必然性」にいささかも手をかけてない、彼にはそれを傷つけることなどできはしない。ただ哲学の舞台に、再び浮び上がってこないよう深い淵にそれを沈めただけだ(必然性は、今や認識における資格だけが問題となる)。そしてそれは、実のところヒューム一人の仕業でない。


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