ライプニッツ × スピノザ

好い悪い


 頭の良い人が好い人であるとは限らないように、頭の悪い人が好い人であるとも限りません。これが現実ですが、世間はそれを許しません。パターンを先に挙げましょう。
 1)頭が悪くて/好い人
 2)頭が悪くて/悪い人
 3)頭が良くて/好い人
 4)頭が良くて/悪い人
 この内で、世間が許すのは、1)と4)です。かくてラッセルは言っています、スピノザは人格が高潔だったが頭が悪く、ライプニッツは人間は悪いが頭が良かったと。(この文中の「が」は逆接の接続助詞ですが、「くせに」とか「わりには」とか、「その上に」とかと着せ替えして遊んでもよろしい。順番を入れ換えるのも可。例:「スピノザは頭が悪かった上に人格が高潔だった」。)。
 ふつう哲学(史)では、頭がどうのこうのというのを「理論(的)」と呼び、人格がどうのこうのというのを「実践(的)」と呼びます(前者を「知性、理性、認識、純粋」、後者を「行為、道徳、倫理」などと着せ替えして遊んでもよろしい)。ですから、スピノザとライプニッツに対するラッセルの評価を哲学(史)的に言い換えるなら、「スピノザは理論的には失敗したが倫理的には優れた人物だった」「ライプニッツは理論的には優れていたが倫理的には根性が悪かった」と翻訳できます。
 話はここからです。問題は、「人格的に優れた人物」が倫理的に優れた哲学を持つ(作る)とは限らず、「人間としてどうしようもない悪党」が高度に道徳的な哲学を持つこともあるということです。結論を先に言えば、「ライプニッツは悪党な上に頭が良く、道徳的な哲学を作った」「スピノザは頭が悪い上に人柄が好く、どうしようもない倫理学を考えた」ということになります。話の展開上(これは「対戦型哲学史」なのですから)、この二人にはどうしても対立点を持って貰わなければなりません。
 ところで、「ライプニッツは悪党な上に頭が良く、道徳的な哲学を作った」というのは、逆説的に聞こえますが、実は矛盾はありません。なぜなら、悪党でしかも頭が好いのですから、「自分では思ってもいないこと」をどんどん書けるわけです。逆にスピノザの場合、「人が好くて頭が悪い」わけですから、当然そのココロは「正直者」ということになります。つまり、スピノザは思ったことを書いたのです。そして、だいたいこういう人間は世間から信頼はされますが疎まれます。つまり、「人が好くて頭が悪い」というのはこういうことなのです。
 で、スピノザの哲学のどこが嫌がられたのかというと、それは「世界は必然的である」という主張です。ライプニッツは頭が良いので、こんなほんとのことは言いません。ライプニッツはスピノザが死んでから、スピノザの哲学をぼこぼこにやっつけました。世間もそれを求めたのです。ライプニッツの主張を簡単に言うと「世界には秩序がある」ということです。しかし、ライプニッツの言ったことは、スピノザの主張とどう違うのでしょうか。実はほとんど同じです。
 スピノザを弁護したい人はたいてい、「いや、そうじゃない、スピノザにも秩序の考え方はある」と言います(こういう人自身はだいたい「良い人」です。これも言い換えると「力にならないカプセル怪獣」ということになります)。けれども、スピノザの場合、「秩序」というのは弱った頭から出た「鰯の頭」だと言っていますし、「秩序」の代わりになる(と人々が言う)「法則」という考え方も、スピノザの場合は必然性と同じ意味です。これに対してライプニッツは、秩序は我々の力では変えられないというのですから、スピノザとほとんど同じ事を言っているのですが、ただ、その「秩序」は人間が作ったものでないにしても、神が作ったものだといことになっています。つまり、スピノザは「世界はもともとそういうものだ」という考え方なのですが、ライプニッツでは、「そうだとして、それは神様がそうしたのだ」ということなのです。ですから、スピノザには「作る」という考え方は全くありませんが、ライプニッツでは「作品」ということが非常に重要になる。ライプニッツは、神様が大工さんだと言うのです(ほんとは、神様は大工であって裁判官だと言います)。この点が二人の一番大きな対立です。
 しかし、けれども、実はライプニッツは、「悪いけれども頭が好い」人(つまり「ずる賢い」人)なので、こうした考えを自分で信じていなかったという説もあります。話は終わってませんが、とりあえず、(おわり)。
 
 


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