デカルト × スピノザ

誤謬について


 自由な意志というとき、それは常に知性と対になっていることが前提されている。知性は真理に関わるものだから、それは必然的である。ところが、意志は行為に関わるものであって、自由でなければならない。ところが、スピノザは意志と知性とを同じものだと考える。なぜなら、精神の中には、絶対的で実体的な能力などはなく、すべては諸観念とその集まりだからである。したがって、通俗哲学史などでは、スピノザは自由意志を否定したことが強調されるが、それはスピノザの主張であるとしても派生的なものである。しかし、そのように説明されるのは、意志と知性(実践と認識)を区別する立場からすれば、意志を知性に解消してしまうことになるからである。そして、そのように見えるのは、意志と知性との区別が、単なる区別ではなくて、知性=必然性を基準にして、そこからの逸脱に意志の根拠を見るからである。簡単に言えば、知性とは元値であって、売値である意志とは差額がある。その差額が自由なのである。スピノザはそのような差額はないとするのである。
 さて、そうした差額を強調する立場は、スピノザに近いところではデカルトが代表的である。デカルトの場合この差額は、上のような自由意志に関わる実践的な問題ばかりではなく、認識論的な問題とクロスオーバーさせられている。つまり、知性が真理に関わるとすれば、意志は誤謬に関わるのである。勿論、意志そのものが誤謬なのではない。ここでも差額がポイントなのである。この場合の意志とは実は判断力なのだが、知性=真理の領域内にあるものを意志が肯定判断する時には問題ないが、そうした領域外にあるものを肯定判断する場合、あるいは同じ領域内にあるものを否定判断する場合、知性は誤謬に陥ることになる。
 こうして、デカルトの場合、意志の自由と誤謬とは同じ根拠から導かれることになる。これに対してスピノザは、意志と知性がそもそも同じものだとするのだから、この場合意志の自由も誤謬も否定されることになる。


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