ロック × バークリー

抽象観念について


 ロックはイギリスに伝統的なnominalismに従って、すべて現実的なものは個体的であって、普遍的なものは抽象作用をなすところの悟性の中にのみ存するとした。我々が世界を記述するだけなら、そんな「留保」は無用だ。ただ「あの郵便ポストは赤い」だの「この前食べたさんまはうまかった」だの云っておけばいい。普遍なんて存在しない。「あらゆるポスト」や「三角形一般」なんか出る幕はない。けれど、我々はただ報告したり、けなしたり、賞賛してばかりいる訳じゃないのだ。我々は推論にもたずさわる。たとえば幾何学は、さまざまな三角形、否すべての三角形の性質を取り扱う。こうして、いかなる三角形が登場しようとも、我々は先に「三角形一般」の性質について考察していたのだから、新しい三角形についても正しい推論を行なうことができるだろう。
 けだしバークリーはそんなに手ぬるくはなかった。「三角形一般」なんてちっとも考えられない、とバークリーはいう。「あらゆる三角形に共通の三角形」?それは「二等辺三角形」ではないだろう、そうだとしたら「不等辺三角形」には当てはまらなくて、ちっとも「三角形一般」ではなくなるだろうから。またそれは「不等辺三角形」ではないだろう、そうだとしたら「二等辺三角形」には当てはまらなくて、ちっとも「三角形一般」ではなくなるだろうから。さて、「二等辺三角形」でも「不等辺三角形」でもない「三角形」なんて考えられるだろうか?すくなくともそれは「三角形」の観念ではない。「三角形」は、「二等辺三角形」であるか「不等辺三角形」であるか、いずれかでなければ存在できない。
 抽象観念は存在しない(我々は抽象的表象を持つことができない)。そんなものがあるかのように思えるのは、ただ「三角形」という言葉にだまされているのである。言葉を捨て、自分の思考のうちにそんな対象があるか考えてみればすぐにわかる。思考の対象になり得るのが観念である。「二等辺三角形」でも「不等辺三角形」でもない「三角形」なんて考えられない、思考の対象になり得ない。従ってそいつは観念じゃない。抽象観念は観念でない。
 言葉はなんだって云える。「あらゆる三角形に共通の三角形」だとか、「丸い三角形」だとか「正義の味方の悪党が黒い白馬に跨って前へ前へとバックした」なんてことまで云える。だが、それぞれめいめいの人が、自分の思考に注意を向けるなら、そんな戯言に対応するもの(観念)は何ひとつ存在しないことに気付いて、「そそのかし」に乗るようなことは決してないだろう。この武器−思考の貞操を守る賢明な方法を用いて、バークリーは「すばらしき抽象能力」の、他の乱用も一刀両断してしまう。
 「思考・知覚の対象とはなっていないが、けれど存在しているもの」という言葉について考えてみよう。文法的にはどこも間違ってはいない。それどころか我々はこんな言い方をしょっちゅうしている。誰も奇異に思わないどころか、「丸い三角形」という言葉は非難しても、多くの人が、この言葉の上に自分の「認識論」をしつらえている。だが同志よ、言葉の誘惑をかなぐり捨て、自らの思考の中を注視したまえ。この言葉に対応する何かを君は見つけることができるだろうか。
 「思考されない存在者(unthought existent)」は、その言葉の通り、思考されてないし、思考されえない。したがってそれに対応する観念はない。「思考されない存在者(unthought existent)」は、「丸い三角形」や「あらゆる三角形に共通の三角形」と同じく、対応する観念の存在しない戯言、ただ一連の空虚な言葉の連なりにすぎない。存在するものはすべて、思考にとって現前する対象でなくてはならない。「存在するとは知覚されることである(Esse est percipi.)」。


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