デカルト × スピノザ

情念について


 デカルトは晩年に『情念論』を出版している。これはデカルト晩年の思想、特に心身合一についての論述を含む点で重要だが、そうした点はここでは触れない。
 この著作は能動受動概念の規定から始められている。受動=パッションこそ、情念=パッションだからである。デカルトは、能動と受動とが同一の事柄であり、かつそれが区別されるのは、二つの主体が区別されるからだとする(第一節)。つまり、ある主体の側面から見れば能動である同じ事態が、別の主体の側面から見れば受動であるということである。あたり前だが。続いて彼は(第二節)、「我々の精神に対して直接能動的に働きかけるのは、我々の精神が合一している身体しかない」として、身体の能動/精神の受動というように振り分けをする。これはデカルト『情念論』の結論ではない。出発点である。この著作の目標は、むしろ、こうした事態を逆転し、精神の能動をいかにして獲得するかを導くところにある。言い換えれば、精神が、いかにして情念の基盤である身体をコントロールするかである。「いかに弱い精神でも、よく導くならば、情念に対する絶対権を獲得しうる」(第五十節)(実際には、デカルトの最終的な考えは、これを徹底するところまではいかず、穏健なところにとどまっている(ストア派的な中庸))。
 スピノザの『エチカ』は第三部が感情についてである。情念、感情についての哲学的考察は中世からある(デカルトのそれは中世の影響が大きい)とは言え、スピノザの感情論への直接のインパクトはやはりデカルトのそれに拠るものだと考えられる。しかし、このことは前者が後者をそのままに引き継いでいるということではない。個別的に見れば、様々の変更が見られる。例えば、デカルトは「基本情念」(この、情念に基本的なものがあるとする考え方自体は伝統的なものである)を六つ挙げている(驚き、愛、憎しみ、欲望、喜び、悲しみ。ストア哲学では四つ)が、スピノザではこれが三つにまとめられる(喜び、悲しみ、欲望。愛と憎しみはそれぞれ喜び、悲しみの派生的感情であり、驚きは感情には入らない)。しかし、最も大きな差異は、感情論の枠組み、引いては彼らの哲学の基本的な枠組みそのものの差異によるものである。
 第一に、デカルトでは精神と物体=身体とは「実体」である。いわゆるデカルト主義的二元論である。これに対してスピノザでは、実体は神ただ一つであり、神の本質が延長と思惟として表現され(いわゆる「属性」)、こうした延長と思惟との派生態(いわゆる「様態」)が精神や物体=身体なのである。したがって、デカルトでは実体的、実在的に峻別されていた心身は、スピノザでは同じもの(実体)の二つの側面(属性)の派生物でしかない。
 このことは、両者の能動−受動概念に決定的な差異をもたらす。なぜなら、デカルトでは上に見たように、精神と身体とが相互に能動−受動の関係におかれたに対して、スピノザでは、そうした能動−受動は考えられない。なぜなら、精神と身体とは同じものの二つの側面であるに過ぎないからである。したがってスピノザでは、ある精神=身体が能動であったり受動であったりするのは、別の精神=身体との関わりを持つからであることになるのである。
 こうした両者の能動−受動概念の差異は、幾つかの点で、次のような結論の違いを導くことになる。
1)デカルトの情念論の目標が、精神=受動/身体=能動を逆転し、精神の身体=受動に対する支配権を確立することであったのに対して、スピノザではそうした治療法は不可能である。いわば、スピノザでは、デカルト的な操作主義が否定されていることになる。
2)では、スピノザ自身はどのような治療法を考えるのか。スピノザは、自然の中に存在する個別的な存在者である我々は(デカルトとは違って実体ではないから)、他者との関係を絶対的に絶つことはできないと考える。したがって、そうした関係から生じる感情を完全に克服することは全く不可能である。しかし、スピノザでは、能動−受動は同時に認識に関わりを持っている。つまり、我々が感情を正確に認識すれば、その感情は既に受動ではなくなるというのである。しかも、デカルトでは情念=パッション=受動であったが、スピノザでは感情(アフェクトゥス)は受動的なものばかりではなく、能動的な感情があるとされるのである。これはデカルトにとっては驚天動地の結論である。
3)デカルトの情念論は、上のような能動−受動概念に基づく以上、個々人それぞれの精神−身体の関係を基にした、個人的な道徳に関わるにとどまるのに対して、スピノザの能動−受動概念に含まれるのは、他者との関係の論理であり、ここからは社会理論にまで至る射程を持つことになる。



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