カント × ミル

数学の資格


(いくつかの留保付きで云うなら)カントのいう、分析的判断と綜合的判断とを分かつ一つの特徴は、後者が我々の認識を増大させるのに対して、前者が(論理学のトートロジーのごとく)我々の認識を増大させることがないという点である。
 ア・プリオリな認識とア・ポステリオリな認識とを分かつ際に、ひとつの指標となるのは「経験」との関わりである。カントは、認識の発生学的起源を問うているのでないから(「我々の認識がすべて経験をもって始まるということについては、いささかの疑いも存しない」と彼は『純粋理性批判』の序文で述べている)、区別は次のようにされるべきだろう。すなわちア・プリオリな認識とは、その正当化にいかなる経験をも引き合いに出す必要のない認識であり、一方ア・ポステリオリな認識とはその正当化のために経験を必要とする認識である。
 このような定式化をおこなえば、数学がア・プリオリな綜合判断から成り立つものであることがすぐ見て取れる。あらゆる知識の領域から「必然性」を放逐しようとする経験論の攻勢から最後に残った砦が、数学である。それは、「ア・プリオリな綜合判断」をひっさげ、単なる「言い換え」から生じるトリビアルな必然性とはちがった必然性の領域を、再び知識の世界に獲得せんとするカントの最初の根城であった。
 徹底した経験主義に立つミルは、その数学を追い落すことを試みる。
 ミルは、カントの分析的判断と綜合的判断に対応させて、命題を二つに分けてみせる。「単に言葉の上の命題」と「本当の命題」である。が、これにはあまり意味がない。重要なのは、数学の命題が「本当の命題」であり、それが経験的真理であることである。たとえば幾何学の公理は経験的真理である。つまり観察からの一般化である。「平行線は交わらない」というのは、我々の感覚からの帰納によるものである。
 さらにミルはいう。算術や代数の各ステップにも、事実から事実への推論が存在する。論理学の大部分も経験的真理である。たとえば矛盾律もまた「経験からの一般化」である。「同一の命題が同時に偽かつ真であることはできない」。これは、「単に言葉の上の命題」ではない。「単に言葉の上の命題」とは、たとえば「帯妻者は結婚している」といったような主語(の意味)を分析すれば正しいかどうかわかる命題である。経験に関わらない命題は、このような「単に言葉の上の命題」のみである。「矛盾律とは、同一の命題が同時に偽かつ真であることはできない、という論理学の基礎である」。これなら語の定義の問題である。けれど問題は、我々が矛盾律と呼ばれるものを採用する理由/根拠を「経験(からの一般化)」以外に求めることはできるか、ということである。


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