スピノザ × ホッブズ

国家論


 スピノザは著作の中では他の哲学者に言及することがあまりない。ホッブズについても同様である。しかし、国家論に関して、スピノザがホッブズを意識していなかったはずはない。なぜなら、前者の国家論は、後者のそれからの影響が見られるばかりか、それに対する批判も見られるからである。ただ、スピノザは書簡の中で、文通者の要請に答えて、ホッブズについてコメントしている。そのポイントは、スピノザの国家とは、ホッブズのそれとは違い、個々人の自然権を認めるのだ、ということである。
 ホッブズにとっては、人間は人間にとって狼であった。ここから有名な、自然状態とは「万人の万人に対する戦い」というフレーズが登場する。つまり、ホッブズの人間把握は、こうした人間相互の対立を基盤にしている。だから、とホッブズは考える、だから共同体=国家を作って、それによって人間の攻撃性を抑制しなければならない。人間が本来持っている力や権利(自然権)を恐怖によって押えるという発想である。上に触れたスピノザの批判はこの点に関わる。なるほど、スピノザもホッブズと同じ様に、自然状態は人間にとって危険な状態だと考える。しかし、ここで微妙に異なるのは、スピノザの場合自然状態における人間が危険なのは、過剰な権利を持つために対立するからではなく、むしろ、人間本来の権利が発揮されないからこそである。ホッブズとスピノザの考える自然状態とは、つまりは社会状態に対するものであるが、ホッブズはそれを個々人の対立として捉えた。これに対してスピノザは、そこに対立ではなく、孤立を見た。人間は一人では何も出来ない。この意味では、一見同じ様な設定ながら、根本の発想は全く逆なわけである。したがってスピノザの場合、社会状態=国家は自然権の抑圧のために必要なのではなく、むしろ、人間個々の自然権を活かすために必要なのであった。これは実は発想が逆転している。スピノザは、社会状態を自然状態に先行するものとして見ているのではないか。しかし、正確に言えば、スピノザの考えでは、自然権が社会状態を要請するのだから、社会状態=国家の方が自然な状態なのである。
 ホッブズとスピノザのこの国家観の違いは、別の観点から見ることも出来る。上に見たように、スピノザの国家は自然的なものである。これを前提に、ホッブズの国家を特徴付けるなら、その国家は自然のものではない、ということになる。つまりは、ホッブズの国家は、人工的な制作物なのである。これは、ホッブズの国家論だけの問題ではなく、ホッブズ哲学の全体に関わる問題である。ホッブズは、その哲学体系を、物体論から始め、人間論、国家論へと至る。しかし、人間とは合成された物体であり、国家とは人工の人間である。そこで一貫しているのは制作の観点である。そもそも物体とはホッブズにとって素材なのだ。そして、スピノザはこうした制作の観点を徹底して批判していた。なぜなら、制作の立場は目的論に関わるものであり、目的論の批判はスピノザ哲学の根本主題だったからである。
[これは、国家論に関わる問題と制作に関わる問題に分割できる]


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