スピノザ × ゲーデル

自由意志について


 決定論のステージにおいて、スピノザはまっとうにも「自由意志」を否定し、「自由意志」が存在するかのように思う、その「誤謬」の原因を、因果関係の認識の欠如;意識は結果(衝動)を認識するがその原因についてはしばしば認識しない、という点に求めた。
 これに対してゲーデルは、W.ジェームズのいう「堅い決定論」の立場を取りながらも、なおかつそれが「自由意志」と両立するのだ、と主張する。そのかわりに、ゲーデルが否定したのは、因果関係を成り立たせる「時間の矢」である。
 「過去に私がなしたこと」について考えてみよう。過去の行動は変えることができない。しかし私はその行動を取らないこともできた、つまり過去においてその行動をとる(あるいはとらない)「自由」があった。その限りで、過去の事象に対しては、決定論と自由意志説は両立可能である。しかし未来に関しては、我々はそのようには考えない。未来は開いている、未来は未定である。だが、我々がそのように思うのは、時間の向きと因果の向きが同じであり、なおかつ結果たる事象が原因たる事象に先立つことはあり得ないと信じているからにすぎない。いわば「反宿命論的確信」を、我々の宇宙に(そして時間に)押し付けているにすぎない。実際には相対性理論が示してみせるように、過去と未来の区分は存在しない。「私たちのように物理学を信じている人々は、過去と現在と未来の区分は一つの頑強にしがみついている幻想にすぎないことを知っています」(アインシュタイン)。
 ゲーデルは、未来が「すでに存在している」だけでなく、原理上完全に予想できると考えていた。さらにはタイムトラベルが可能であることを信じて疑わなかった。だがゲーデルの時間旅行は退屈なものとなるだろう。その時間旅行は、完全決定された歴史(時間上のあらゆる事象)を変更することは全くできない(時間旅行についてすら決定されているはずである)。「親殺しのパラドクス」が成立する余地などまるでない。

[参考]
 K・S・ソーンは、1988年アメリカ物理学会誌に掲載された論文で、時間的閉曲線のない通常の時空間から、時間的閉曲線(時間が回帰するループ)を作る具体的手順を示した。いわば量子力学と相対論を使った「過去に戻れるタイムトンネルの作り方」である。旧ソ連のイゴール・ノビコフらは、そのような時間的閉曲線上では、因果の鎖が矛盾なくループし、したがってその上での物理現象について、そのような周期条件を付加して方程式を解かなくてはならないだろうと主張している。


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