アヴェロエス × アヴィケンナ

イスラムのアリストテレス


 ヨーロッパ中世哲学が、教父哲学やスコラ哲学に見られるような哲学的達成を果たしたのは、教父哲学、特にアウグスティヌスにおけるプラトン主義(新プラトン主義)や、スコラ哲学、殊にトマスにおけるアリストテレス主義といった、ギリシャ哲学からのインパクトが極めて重要だった。しかし、それは同時に、神学と哲学との軋轢を引き起こさずには措かなかったが。更に問題を複雑にしているのは、キリスト教世界がアリストテレス哲学を知ったのは、イスラムの経由を通してだということである。イスラムにおける極めて高度なアリストテレス解釈は、ヨーロッパ中世哲学にとって、自らの水準の引き上げと、自らのアイデンティティの動揺という、二つの異なる衝撃を与えたのである。
 こうして、アリストテレスの衝撃は、中世哲学に二つの流れを生むことになる。即ち、アリストテレスを利用して、キリスト教に神学的体系の基礎付けを与えるというトミズムと、アリストテレスにより重きを置き、これがキリスト教と矛盾する場合も、哲学は哲学として肯定するラテン・アヴェロイスムである。そして、後者の場合、その哲学、信仰と矛盾する哲学とは、主にアヴェロエスの思想を指していた。つまり、今挙げたようなヨーロッパ中世哲学内の論争の起源は、イスラム哲学にあると言えるのである(といって、トミズムの遠祖までもイスラム哲学に求める必要はない)。
 ここでは、ヨーロッパ中世哲学内でも大きな論争の主題となった、知性の単一性を巡る問題を、イスラム哲学内の論争として取り上げてみよう。
 イスラム哲学史を整理する場合、「ファルサファ」(ギリシャ語のフィロソフィアに由来する)と呼ばれるイスラム・スコラ哲学の流れを、大きく、東方哲学と西方哲学とに区分することが常道となっている。後者が前者から区別されるのは、その舞台が、スペインという西方にあったからである。しかし、この両者を等しくイスラム哲学として一括することにはあまり利点はない。どちらもギリシャ哲学の影響を受けたイスラム哲学だという程度である。むしろ、以下に述べような内容的な違いだけではなく、後の歴史の流れにとっても、この二つの学派は全く異なったインパクトを与えることになった。つまり、東方哲学は、イスラムの正統スコラ哲学であるに対して、西方哲学はその地理的環境がそうであったように、イスラム本土とは切り離されており、その意味で傍流であるばかりか、むしろ、ヨーロッパ・キリスト教世界への影響の方が大きかったからである。
 ここでは、前者の代表としてイブン・シーナー(ラテン名=アヴィケンナ)と、西方哲学の頂点としてのイブン・ルシュド(同=アヴェロエス)を取り上げる。
 アヴェロエスの志向を一言で言えば、それは「純正アリストテリスム」である。彼以前のギリシャ系イスラム哲学は、一種の折衷に陥っていたのに対して、アヴェロエスはアリストテレスこそ人知の極みであると考え、入手可能な限りのアリストテレス著作を手当たり次第に注釈した。しかし、「アリストテレスに還れ!」といった標語は、新プラトン主義、新カント派、ラカンのフロイト読解に見られるように、これまた別種の揺らぎを持つことになるのが定めである。しかし、アヴェロエスおよび(ラテン)アヴェロエス主義が、自らは「生粋のアリストテリスト」だと思っていたことは重要である。
 アヴェロエスの哲学の根本概念は、「宇宙永遠説」、「知性単一説」などに表れているが、殊にアヴェロエス独自のものは後者である。前者について図式的に言えば、世界が神の創造によるという立場を残すのがアヴィケンナであり、逆に宇宙は始まりを持たないとするのがアヴェロエスである。イスラム教にとってアヴェロエスの方が危ないことは言うまでもない。
 アヴェロエスの世界永遠論は次のようにまとめることができる。世界が神の創造によると主張する場合、その創造はある一定の時間において考えられている。しかし、それは神を時間に従属させるという意味で、重大な間違いを犯している。むしろ、時間というものが運動の様態に他ならないとすれば、神が世界を作り世界が運動を始めた時に初めて、時間も存在し始めたのだと考えなければならない。つまり、世界の永遠性と神による世界創造とは矛盾しない、というのである。
 アヴェロエスのこうした考えの上に、アヴィケンナに対する批判が重ねられる。第一は、質料と形相関係についてである。アヴィケンナは、質料そのものは永遠であることを認め、しかし創造説に抵触しないように、神が質料に形相を与えるのが創造という行為だとしたのである。これに対してアヴェロエスは、形相と質料の乖離を批判し、創造とは、質料に内在している形相の現実化なのだと考える。アリストテレスに由来する形相−質料説、これに関して与えられた二つの解釈は、ヨーロッパ中世にも尾を引くことになる。
 要するに、アヴィケンナがより折衷的で、しかし、神の超越性を保存することにより、よりディナーミッシュな世界を描いたのに対して、アヴェロエスはより「合理主義的」な、スタティックな存在論を提示したと言える。このことは、アヴェロエスの知性単一説にもその影を見ることが出来る。アヴィケンナでは、個物の位置は確保されるが、アヴェロエスはそうしたものを認めない。「神は個物を認識しない」のである。
 アリストテレスの解釈を巡って、既に能動知性と受動知性との区別がなされていた(アレクサンドロス)。アヴェロエスは受動知性に対応するものを「質料的知性」と呼んだ。これらは現象的には、人間の知性を指している。これに対して神の知性に対応するものが能動知性である。アヴェロエスの独自の解釈とは、質料的知性を、能動知性に吸収させたことである。逆に言えば、人間が持つ個々の質料的知性とは、能動知性によって人間の中に生じた派生形態であるにすぎない。したがって、個々の人間が死んでしまえば、質料的知性は単一の能動知性に回収されてしまうわけである(ただし、アヴェロエスはこうした質料的知性の能動知性からのデグラデーションに三つの段階を考えた。即ち、最下級の一般大衆、中層階級の神学者、最上位の哲学者である。そして、実は、神学者が最も病気である!)。
 このことは重大な結論をもたらす。なぜなら、アヴェロエスの知性単一論では、魂の不滅という宗教上の根本教義が破壊されてしまうからである。正確に言えば、アヴェロエスでも魂(知性)も能動知性に合体する形でなら不滅である。しかし、イスラム教およびキリスト教が必要としたのは、個人の魂の不滅だったのだ。もし個人の魂が滅んでしまったり、能動知性に解消されてしまうなら、天国での生活(イスラムではいつまでも処女であるという不思議な美女がお世話してくれることになっている)や最後の審判は否定されてしまうことになるのだから。アヴィケンナも確かに流出論的であるが、アヴェロエスほどには割り切らなかった。こうしたアヴェロエス主義的アリストテレス主義がヨーロッパ中世に与えた衝撃の大きさは計り知れない。
 こうした世界永遠論、知性の単一性といった思想は、遠くはパルメニデスの存在一元論哲学に属するものであり、近代以降にあっても、一つの試金石とされた。例えば、存在一元論的であるとされるスピノザを攻撃するライプニッツは、前者をアヴェロエス主義的であると批判したのである。更に後には、ヘーゲルがこうした傾向を、東洋哲学一般の特徴として描き出すことになる。
 アヴェロエスは、いわばイスラム哲学の極限であり、しかし、それだけにその徹底性は、イスラム哲学内部では影響力を持ち得ないほどの高みに達していた。イスラム哲学を主導するのは、むしろアヴィケンナの方だったのである。


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