ヘーゲル × レヴィナス

「全体性」の哲学


 レヴィナスがヘーゲルを批判するのは、ヘーゲルだけを批判するためではなく、あらゆる「全体性」の哲学への批判としてである。そして、レヴィナスの、「全体性」の哲学への批判は、批判というよりも、嫌悪感、それも生理的な拒否としてある。簡単に言えば、レヴィナスは、のっぺり・べったりした、平面的な、均質な、のし掛かるような「全体性」を嫌悪しているのである。
 レヴィナスにあって、我々にとって理解しにくいのは、こうしたレヴィナスの感覚的な志向であって、その理論的な側面ではない。なぜなら、その理論自体は極めて単純なものだからである。つまり、全体性、同一性に対して、レヴィナスが持ち出すのは、<他者>、<超越>、<分離>といった、ある意味では常套的な概念なのである。
 ヘーゲルの論理においては「否定」が重要な役割を果たしていることは言うまでもない。ある立言=テーゼに対して常にそれを否定するテーゼ=アンチテーゼが立てられる。しかし、ヘーゲルの意図は、そうした否定、対立を提示することではない。それらの対立・矛盾を乗り越え・総合した、同一性=ジンテーゼへと回帰することこそヘーゲルの目標である。ヘーゲルにあっては、<他者>(その代表的なものが「自然」である)は、やがて同一性へと回収され、同一的な全体の中での一つのステップとして位置付けられてしまう(例えば自然は、精神が潜り抜けなければならない一つの必然的な段階である)。したがって、そこにある<分離>も同じ様に、最終的には埋められてしまうものであり、<超越>の契機も抹消されてしまう。ヘーゲルの論理は全てのものを飲み込む巨大な全体性へと帰着する。こうした同一的な全体の破壊を目指すレヴィナスは、そこに、全体性へと回収されないような他者、分裂、そして否定でないような超越を割り込ませる。レヴィナスの倫理学で重要な概念となっている「顔」といった、いわば感覚的で比喩的な「概念」も、それが他者の他者性の指標として見れば、分りやすいものである。
 こうしたレヴィナスの諸概念を統括するのが「外部性」の概念であると言える。「存在とは外部性なのである」。
 ただ、比較的わかりやすい理論構築の中で、注目すべきなのは、全体性、あるいは同一性を批判するためにレヴィナスの持ち出す装置としての「無限」の観念である。これもヘーゲルとの対比がわかりやすい。ヘーゲルは無限なるものを二種に分けている。「悪無限」と呼ばれるものは、自己に対する他者を自己の外部に持つ場合である。これはある意味で当たり前の事態である。なぜなら、一般に、自己の外部にあるからこそ他者は他者なのだから(本当はそうも言えないが)。しかし、これが「悪無限」と呼ばれるのは、他者のもとにあって自己であるような無限こそが「真無限」だとされるからである(「論理学・形而上学・自然哲学」、「小論理学」94節補遺)。前者が悪であり「消極的(否定的)」であるのは、その無限性が実は無際限でしかないからである。点を並列的にどこまで並べても、それは際限なく続けられはしても決して真の無限には至らない。そうした直線的並列ではなく、円こそが真の無限の形象なのである(『法の哲学』22節)。つまり、悪無限とは開かれた系であり、真無限とは閉じられた、全体的な無限である。ヘーゲルが体系とは円環でなければならないと言うのも、こうした意味である。
 ヘーゲルは「真無限」に、「自己が他者のもとで完成すること」という表現も与えているが、これは他者の他者性を認めることではない。むしろ、自己が他者の中において同一性を回復することで、より高次の同一性が、つまり全体性が達成される、というのがヘーゲルの考え方である。そこでの「他者」は、同一性を確認するための他者にしかすぎない。
 これに対してレヴィナスが強調するのが、そうした全体性へと回収されるような無限を超克するものとしての無限の観念なのである(「哲学と無限の観念」=「超越・外傷・神曲」に所収)。それは「無限の概念ではない」。つまり、理性によって捉えられるような無限ではない。その無限がはらむのは、理性にとっても他者なののである。理性は単一のものでしかない。そこに他者性はない。レヴィナスの強調する無限は独我論的なものではなく、根底に他なるものを抱えた、「社会的な」ものである。
 ヘーゲルにとって、他者とは顔のないものである。自己と他者とは相対峙していながら、「顔」は見えてはいない。いわば、ヘーゲルの他者に対する戦いは、したがって、他者の後ろや横手から近付いていって殴り倒すようなものである。これでは良心も痛まない、そこには倫理はないのだ、レヴィナスはそう批判するわけである。



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