ベルクソン × ブラウワー

直観について


 数学的実在なるものが存在すると確信する数学のプラトニストたち対して、構成主義者たちは、数学的対象は、我々から独立に実在しているのではなく、むしろ我々の精神の自由な所産であると主張する。たとえば自然数(1,2,3,……)は、無限個あると云われるが、これは自然数全体(無限の全体)が完結した姿であらかじめ存在しているのでなく、限りなく生成されるということを意味するのである。
 (構成主義の最右翼である)直観主義数学を標榜したブラウワーは、人間知性の根本に「two-onenessの直観」を置く。知性には、人生の諸瞬間を質的に異なる2つの部分に分割し、しかも同時に想起作用によってそれらを意識の統一下に置く作用がある。過去に置き去りにされた人生の諸瞬間は、自我から切り放され、世界へと移し変えられるが、このように時間的に生成される自我と世界との二項的な現象列(x,x)自体が、今度は新しい二項性の一つとして把握され、かくして時間的な三項性((x,x),x)が作られる。このようなプロセスが限りなく続くことで、((((……(x,x)x,……,x),x),x),x)、すべての順序(数)が生成されていくというのである。ブラウワーによれば、自然科学もまた、「two-onenessの直観」から作り上げられていく、(プロセスとしての)因果性の範疇によっている。
 これに対してベルクソンは「直観」という言葉を使いこそすれ、その意味するところは大いに異なること注意しなければならない。数学上の直観主義、その「直観」が構成的に働くとすれば、ベルクソンの「直観」とは実在の中に入り込む方法である。ベルクソンの根源的な「直観」は時間(ベルクソンの言う「純粋持続」)の直観である。その意味するところは、空間的でないことである。これが当たり前だと言われるなら、こう言い替えてもよい、つまり、空間=分割/時間=統合であると。ベルクソンによれば、前者を対象とするのが(自然)科学であり、後者を対象とするのが哲学である。空間とは物質の特性であり、時間とは精神の特性である。前者は「(だらっと)弛緩しており」、後者は「緊張している」。科学の方法が分析であるとするなら、哲学の方法が「直観」なのであり、それは実在としての「時間」の中に飛び込んでいく入り口である。
 しかし、ベルクソンの時間が「純粋持続」と呼ばれる理由、つまり、単なる時間ではなく、純粋な時間という点が強調されるのは、時間の本質を捉えるために、純粋な時間を「空間化された時間」から区別しようとする意図によるものである。つまり、ベルクソンの考えでは、時間にも、「空間化された時間」と「純粋な本来の時間」とがあるのである。即ち、前者は「過去」であり、後者が「将来(未来)」である。過去とは既に過ぎ去り、決定され固定された時間であり、分割可能であるに対して、現在から未来への時間は「流れ」として未決定の状態にある。ベルクソンが「自由」を見出すのはここにおいてである。しかし、ベルクソンは、過去の本質が決定されているところにあるのだと言うのではない。過去はそのように見られがちだというのだ。つまり、ベルクソンは過去を空間化され、物質化から救い出すために、時間の全機構を精神の働きとして理解しようとする。つまり、過去とは(精神の働きとしての)記憶なのである。しかし、それは分割された上で統合されることによって「構成される」数量的なものではなく、いわば「生きた過去」である。(人)生は分割されるのではなく、記憶の中に蓄積される。こうして、現在を頂点とした円錐形モデルが提示される。刻々増大しつつ生成する過去としての記憶。後にベルクソンはこうしたモデルを精神の中だけではなく、自然の中に見出すことになる。これが「創造的進化」である(→ベルクソン対ダーウィン)。



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